書評

『レッツ・すぴーく・English』を読んでみた感想!言葉に関する面白いエッセイを読みたい人にオススメの本!

『レッツ・すぴーく・English』を読んでみた感想!言葉に関する面白いエッセイを読みたい人にオススメの本!

詩、小説、エッセイといろんなジャンルのものを書いている伊藤比呂美さんですが、私は特に彼女の生き生きとしたエッセイが好きで、よく読んできました。
この本は、伊藤さんがアメリカに移住してから、英語について感じてきたことを書いたもの。
英語や異文化との葛藤、子供・夫と暮らす日々などが、明るい文章でたっぷりと味わえます。

英語の勉強をしている人にはもちろん役立ちますが、そうでなくても大丈夫。
それよりも、言葉のプロが、言葉をどのように考え、表現するかが醍醐味です。
言葉に関する面白い文章を読みたい人には、とても刺激的な本だと思います。

家族それぞれの言葉

ところが、そういう会話のとき、うちの娘たちは
Good.
と言うのです。
How are you?
にも
How are you doing?
にも
How was school?(学校どうだった?)
にも、
Good.
と言うのです。

わが家に娘は3人いるけど、そのうちの2人がそう言います。
おおざっぱにいえば、3分の2の確率です。ひとりは幼稚園児、もうひとりは高校生。
他人のことばを吸収しまくる人々であります。彼女たちのまわりでは、みんながそう言っているらしい。

そばで、夫が、
「この英語は正しくない、goodじゃなくfineが正しい、アメリカ人の使う(彼はアメリカ暮らしの長いイギリス人)、くだけすぎたまちがった言い方なのに、みんなが使うから、10年前はまちがいだったのに10年後は新しい言い方だと承認されてるだろう、ことばは変わるのさ(ため息)、自分じゃ言う気にならないけど」
とつぶやいていますが、娘2人は意に介さず、Good.を乱発するばかり……。
残るひとりは、高校生のクセにマジメでガンコなものですから、頑固に、I’m fine.あるいはI’m doing well.と言いつづけております。

英語を習い始めるときにまず覚えるあいさつ、
How are you?
I’m fine, thank you. And you?
のやり取りのことです。
このあいさつも変化してきているのですね。

なお、この本は2000年から2003年に雑誌に連載されたものに、大幅に加筆訂正して2005年に出されたものです。
この時点、また現在においての内容の正確性は、この書評の目的ではありませんので触れません。
いつ読んでも味わえる伊藤さんの魅力を紹介したいと思います。

さて、この引用部分を読んでいただくと、このエッセイに出てくる登場人物のことがおおよそ分かっていただけると思います。
少しだけ付け加えると、伊藤さんと上の2人の娘は、もともと日本に住み、日本語で生活していました。
娘が12歳と10歳の時にアメリカに移住しました。夫は日本語をできません。
いろんな年代、いろんな英語のレベルの人たちが、このような伊藤さんの躍動感あふれる文章で登場します。

また、この部分の夫の言葉は、言語というものの性質がとても正確、簡潔にまとめられています。
すなわち、言葉は変わるものであること。
人間はそれについて、抵抗を感じることも多いということ。
伊藤さんの夫は、言葉は変わるということをよく認識していますが、自分では使う気にならないといいます。
言葉に対する人それぞれの微妙な違いが分かりますね。
そしてこの部分は、次の引用部分に続いていきます。

伊藤比呂美さんの変わりゆく言葉への向き合い方

日本語で言えば、「見れる」「食べれる」のようなものかもしれません。10年前はわたしも絶対使いませんでした。
でも今は、すっかり慣れちゃって、しゃべるときにさんざん使ってます。
書くときにはまだ「見られる」「食べられる」と書きたいのですが。
「見れる」って言うと、スーッとします。権威にたてつき、既成の価値観をぶちこわしているという爽快感がある。革命的ですらあります。

書くのはまだ書きたくないが、しゃべるときには使う、という段階なわけですね。
そして、爽快感があると。
このように、言葉を見る目、言葉を使う自分自身を見る目、それを表現する文章が、言葉のプロならではのものだと思うのです。
爽快感のようなものを感じている人はある程度の割合でいるかもしれませんが、わざわざそれを言語化する人は少ない。

伊藤さんはそういうことを伊藤さんならではの奔放な言葉で言語化し、浮き彫りにします。
言葉は使用者にとって「権威」にも「既成の価値観」にもなりえます。
その意味でこの文章は非常に正確なのですが、それを自分のこととして、このリズムで書き切るのが伊藤さんです。

あいづちで炸裂する伊藤比呂美さん節

Soh-ne.
わたしは一時コレをがんがん使ってました。
日本語のわかんない人にもへーきで。どうせ息のようなコトバなんだからと思って。
もちろん用は足せます。
半分、ヤケでした。
英語の中で暮らしてると、自分が出せなくて、不便で、いらいらするんです。
わたしはどこから来てどこへ行くのかなんてことも、あやふやになってましたから。
soh-ne.で、瞬間的にも自分に戻れるような気がして。

あいづちとして、「Year?」や「I see.」など10種類以上の例を挙げて説明してくれている中の一つ。
「Soh-ne.」つまり「そーね」です。
この辺りが伊藤比呂美さんの面目躍如たるところです。

困難な環境になっても、自分を立て直す方法をなんとか見つけて実行する姿が素敵なのです。
そして、それを明るい文章で私たちに提示してくれます。
「ダメに決まっている」と思うのではなく、「これでいいんじゃないか」という考え方。「なんとかしよう。なんとかなるよ」と、かっこつけずに、ときにはがむしゃらになりながら、実行する。
しなやかな力強さを感じます。

聞き取れない音はお互い様と知る

ナビさん(女性)の声が、適宜、「700メートル先を右方向です」とか「300メートル先を左方向です」とか教えてくれまして、それを夫、助手席で、ずっと聞いていた。
なんて言ってるの、ときくから、「みぎほうこうです」「ひだりほうこうです」と教えました。
ところが、信じないのです。ぜったいにそんなふうには聞こえないと言い張るのです。
(中略)

「どんなに耳をすませても『はこで』にしか聞こえない。
みじ、はこで、にだり、はこで」と夫は言いました。
「これは、あなたのLとRの問題と同じなのではないか」
……ははは、やっと気がついたか。

長い母音が英語にはないのです。
ほうこうです、と日本語では書きますが、じつは「う」を発音しているわけではない。
むしろ「ほー」hoo「こー」kooとなってるわけです。
この伸ばす母音、同じ母音が2つつながるというのが、英語にはない。
英語を話す人たちに、おばさんoba sanとおばーさんobaa san、おじさんoji sanとおじーさんojii san、いとさんito sanといとーさんitoo sanが、区別されにくいのはそのためです。

伊藤さんと夫が北海道でレンタカーに乗っているという、おそらく珍しいシチュエーションから生まれたエピソードです。
「方向です」が「はこで」としか聞こえないことによる夫の気付きが、鮮やかに描かれています。
LとRの違いは、私もよく分からないまま過ごしてきました。
舌の位置を説明されて、違う音なのだと言われても、今一つその違いがわからない。
英語を母語とする人は、本当にこの音を区別しているのかと不思議でした。

日本人が感じる「聞き取りにくさ」の代表ですよね。
この文章を読んで、霧が晴れるようにその謎が解けました。
LとRのように、日本語になくて英語にある音とは逆に、英語になくて日本語にある音というものがある。
お互いにそういうことがあるんだと初めて知った瞬間でした。
学ぶ言語の中のある特定の音が、自分の母語の中になければ認識しにくい。

この事実を考えると、言語間の深い断絶を感じます。
分かり合えることの難しさを。
しかしそれゆえ、このような音をマスターできた時は、深い感動を覚えるのかもしれません。
そして断絶とは全く逆に、これがお互い様だということに、私は小さなおかしみのようなものも感じました。

違う言語を学ぶときに、世界中のだれもがこういうことに引っ掛かっているのだと思えば。
このことを知っておくと、お互いに「例のやつね。難しいんだよね」と思えます。
伊藤さんと夫が分かり合えたように、その困難さをお互いに共有することは大切なことだと思いました。

まとめ

読むこと自体が楽しくてたまらない、伊藤さんのエッセイの中でもイチオシの一冊です。
言葉のプロによる言葉への視線、そしてほとばしっている伊藤さんらしさ。
伊藤さんの声がそのまま聞こえてくるような疾走する文章をお楽しみください。