書評

『文明の憂鬱』を読んでみた感想!読み応えのあるエッセイを読みたい人にオススメの本!

『文明の憂鬱』を読んでみた感想!読み応えのあるエッセイを読みたい人にオススメの本!

小説家の平野啓一郎さんが、ほぼ20歳代後半の頃に書いたエッセイを集めたものです。
とてもその年齢で書いたものとは思えないような、豊富な知識、考える力、正確な文章が充満しています。
格調高く、重厚さを感じる文体に圧倒され、エッセイとしてぐいぐい読ませる力に酔いしれることができるでしょう。
読み応えのあるエッセイを探している人にオススメの一冊です。

京都の魅力を考える

しかし、それでは一体、彼らが何時頃のどういう京都を残したいと思っているのかと問えば極めて曖昧である。先の評論家ではないが、結局は各々の記憶の中にある「あの日、あの時見た京都」ということでしかないのではあるまいか?

それはいかにも恣意的である。京都という町の長い歴史に比して、彼の個人的な愛着の歴史とは何とちっぽけなものであろう。
(中略)
人が死ぬように、建造物も壊れる。
人が移り変わるように、風景もまた絶え間なく変化する。

そうした存在の絶望的な不安を慰める為にこそ、不変の聖所としての神社仏閣がかくも膨大な数築かれねばならなかったのではあるまいか。
永遠に変わらない場所である神社仏閣と無常に変わりゆく江湖の人間の居住区、その残酷な対比こそが京都という町のいわば凄みなのではあるまいか?
(中略)

変わり続けた結果、嘗て一度として何かであったことがない。
しかも、その虚無の表層の目眩く衣替えの連続が、紛れもなく京都であるとしか言いようのないような或る固有の雰囲気を醸成している。
それこそが、この町の本来の魅力なのではあるまいか?

京都の伝統的な神社の前にコンビニができたのは景観破壊だという声に対する、平野さんの意見です。
そんなものは変わり続けている中の個人的な一瞬でしかないと。
大変納得できる意見です。
それにしても、この問題はとても難しいと思います。

京都は確かに、特別な都市といえるでしょう。
しかし京都ならではの魅力というものを、千数百年にわたって定義づけることはできるのか。
京都の京都らしさはその歴史によるところが大きいですから、歴史を無視するわけにはいかない。
しかしその歴史がいろいろありすぎて、一つにまとめにくい。
というパラドックスなわけです。
この平野さんの文章からも、なかなかはっきり書けないもどかしさを感じます。

「変わらない神社仏閣」と「変わりゆく居住区」の対比が凄みだと書かれています。
確かに、神社仏閣の特徴的な木造の建築、その風景は、住宅のそれに比べればはるかに変わらないでしょう。
京都から神社仏閣が完全になくなると、それは京都ではなくなるような気がします。
これは難しい問いの中でも、一つの大きなヒントになると思います。

「虚無の表層の目眩く衣替えの連続が」「或る固有の雰囲気を醸成」。
とてもよく考えられた言葉だと思います。
何物でもない上っ面がどんどん変わっていくエネルギーと言いましょうか。
そのエネルギーの存在を許す場所と言いましょうか。

ある一編が本全体への向き合い方を変えてくれたこと

私も割と気は長い方なので、用もなく乗っていたのならば、諦めて大人しく待ってもいられたであろうが、生憎と刻一刻と開演の時間が迫っていたためにどうにも落ち着かず、とうとう開演時間を過ぎてしまった時には、流石に苛立ちも頂点に達して目の前がくらむほどであった。
(中略)

さて、そんな話を、私は今回の新幹線不通の報道を見て、ぼんやりと思い出していた。電車に一時間半閉じ込められたという逸話は、妙な話ではあるが、今では私のちょっとした自慢にもなっていたが、今回新幹線に乗り合わせた人たちは、最長で十八時間(!)もの間車中に閉じ込められていたというのだから、その間の心情を思うと、不憫に思うよりも、何となく尊敬したいような気さえする。

幸運は決して人に尊敬の念を催させないが、不運は時にそれに遭遇した人に或る種の威厳を与えるものである。

この文章は少し他の文章と違います。
ほとんど平野さんの日常の経験しか出てこない印象なのです。
電車の遅延のせいでコンサートをかなり聞き逃したこと、似たようなことが3度もあったこと、今回の新幹線不通で明日の新幹線を飛行機に替えたこと、などが書かれています。

考えさせられるフレーズとして、「幸運は決して人に尊敬の念を催させないが、不運は時にそれに遭遇した人にある種の威厳を与えるものである。」がありますが、これを私はまだ理解できておりません。
「え、そうかな?」と思っており、否定も肯定もできない状態です。
これは私の考えが足りないせいであり、これからの課題です。

この一編を読んでからこの本の他の文章を読むと、他の文章でもかなり平野さんの日常経験が生かされているのに気が付きます。
しかし他の文章は、そこから詳しく綿密な考察に進んでいきます。
これにはそれがほとんどありません。
この一編で考察を進めるとすると、以下のようなものになろうかと思います。
私が勝手に考えたことなのですが、そう大きくは間違っていないと思います。

文明によってつくられた鉄道などの交通機関を使わないで生きるのは困難である。
長時間の遅れなどのトラブルは、起こるときには起こる。
その時は誰もがマイナス面を引き受けざるを得ない。

『文明の憂鬱』というタイトルそのままですね。
そういうことを平野さんも自分の体験と合わせて考えているのだと思われるのですが、見ての通り、ごくごく当たり前のことです。
書くまでもないことです。
そこまで考えて、「ああこれはエッセイなんだ。もっと気楽に読んでいいんだ」ということを思い起こしました。
他の文章があまりにも豊かな考察を含み、迫力がありすぎるために、「考えなくてはいけない」という意識にとらわれていたのです。
この一編を読むことで、このエッセイ集の全編にわたって平野さんの日常経験が多く盛り込まれていることに気付きました。
この本への向き合い方を少し変えてくれた一編です。

華のある人の魅力

「彼のような」と今言ったのは、その才能と実力とに於いて圧倒的に他に抜きん出ているというばかりではなく、それらを更に何倍にも輝かせる華(強調原文)を持っている人間という意味である。
実力はあるけれども地味だという選手にもそれなりの味わいはあるけれども、私は余り興味をそそられないし、そうした選手に声援を送ってこそ通だというような考え方も好かない。

実際にソープがあんなに男前でもなく、若くも、爽やかでもなかったとしたら、決してこれほどの騒ぎにはなっていなかっただろう。
逆説的ではあるが、ああいう人間を作り出すことの出来るはただ現実のみであって、映画や小説であんな主人公が登場すれば、受け手はきっと「あり得ない」としらけてしまうに違いない。

出るべくして出た人というのは、歴史を振り返ると案外いるもので、だからこそ何時まで経っても歴史に何か必然のようなものがあるという予感を人は捨てきれないのであろうが、私はそうした彼らの無頓着という幻想を信じない。
それは彼らの存在の意義を同時代に鈍感にも理解することの出来なかった人々が拵え上げたものに違いない。

彼らは、自分自身に対して常に透徹した意識を持っている筈である。自分のなすべきことがはっきりと見え、それを着実に実現している。
だからこそ彼らは魅力的なのではあるまいか。

2001年の当時、水泳で多くのメダルを獲得していたイアン・ソープさんを例に挙げ、「華のある人」について書かれたものです。
一見、情緒的な文章に見えながら、透徹した理論に貫かれていることが最後に分かる文章です。
地味な選手を応援してこそ通っていう考えは、通ぶってかっこつけているようで私なんかも抵抗を感じます。
と言いながらも、私自身、通ぶる方になってしまう気もするのですが。
平野さんは「好かない」とはっきり書いています。

最後の段落は、私には少し難しかったのですが、次のように解釈してみました。
「『彼らは天の采配によって現れた天才で、彼ら自身が意識して自分を作ったわけではない』という意見に賛成しない。
彼らはあっけらかんとして見えるかもしれないが、厳しく自分を見て自己管理しているのである」と。

確かにスポーツ選手などの有名人は、自己管理が大変だろうと思います。
華のある人は人一倍大変なはずで、かつその管理にうまく成功していると言えるでしょう。
そしてここまで読んでようやく、ああ、やっぱりこの文章も平野さんの透徹した理論に貫かれていた、と鈍い私にも気が付きます。
「華のある人は、人一倍努力しているから魅力的なのだ」という結論だったのだと。
前述の考えが「好かない」のも、華のある選手を作り出せるのは現実のみだというのも、この結論を平野さんが強固に持ち、華のある人に敬意を持っているからだったのです。

まとめ

正直、私には難しい部分も多い本で、開くたびに圧倒されてきました。
時事問題を扱っており、内容としては古くなっているものもあるのですが、ものの考え方や文章の書き方には、今でも学べるところがいっぱいです。
素晴らしいエッセイを読むことの喜びを、何度も感じられると思います。