書評

現役の甲賀21代目宋師が忍者の虚構と実態を暴く!『忍者の掟』

現役の甲賀21代目宋師が忍者の虚構と実態を暴く!『忍者の掟』

忍者といっても、世代によりイメージが異なるようです。
二十代はゲームの『天誅』など。
三十代はマンガの『ナルト』。四十代は『忍者ハットリくん』。四十~五十代は『仮面の忍者 赤影』。
五十~六十代は『サスケ』『カムイ伝』『忍びの者』などをイメージする傾向にあるとのこと。
例えばハットリ君は青い装束を着ていますが、ナルトは着ていません。そのように大きな違いがあります。

この本は、現役の甲賀忍者宋師が、直接学んだ教えや文献に基づいて事実と思われる忍者の実態を解き明かしています。例えば、昔は鉄は貴重なので「手裏剣を投げる」というのは考えにくいといいます。
また著者は三重大学と共同研究も行っている三重大学特任教授でもあります。

●なぜ忍者は嘘くさいのか?

忍者は実態不明の存在と解釈されてきたのである。
それどころか、実証史学的には「忍者虚像論」さえ存在している。

既に述べたように忍者のイメージは多様ですが、例えば「火遁の術」で何もないところから本当に火を吹くというのは、ちょっと信じがたいことです。
おそらくそのような述はなかったでしょう。
ただし、相手の陣営に侵入して火をつける「火計」は行われていました。
一方「木の葉隠れの術」は実際に存在していたようです。

しかし「木の葉隠れの術」というと、木の葉っぱをまき散らし姿を消すイメージですが、実際には人混みにまぎれるテクニックです。
このように、イメージの元になる事実はあるとしても、江戸時代以降に世の中に広まったイメージは実態と大きくかけ離れてしまったようです。

また忍者は当然こっそり行動するので、文献や資料にほとんど登場しません。
「合戦で忍者はここから侵入しろ」とか「暗殺計画」が、将来の資料に残るのはおかしなことです。
そのためほとんどが口伝であることが、忍者の実態を証明する際の課題となっているようです。

また「忍者」という呼び名が定着したのも比較的新しく、昭和30年代になってからだそうです。
それ以前は、乱波(らっぱ)、透波(すっぱ)、草(くさ)など、流儀により様々な呼ばれ方をしていたそうです。
ただし「忍びの者」という言葉は以前から存在していました。

●忍者の実態

忍者本来の姿は人々や自然との「和」を求めるものであり、忍術はそれを達成するために生まれた手法である。

忍者は、午前中は畑仕事をしていたようです。
実は私たちが「忍び装束」としてイメージしている藍色や黒色の服や覆面は、野良仕事の服装だそうです。
なお、藍染めの服は防虫・止血効果があり、カウボーイのジーパンも同様の理由で藍染めであるとしています。
実は忍び装束のイメージは、江戸時代ですら定着していなかったようです。

手裏剣も、冒頭で述べたようにほとんど使われず、基本的に石を投げたようです。
また「針」が自身の治療および敵の急所を狙う武器として重宝されたようです。
「布」も重要で、物を隠したり、止血、綱(つな)などに使えます。
敵の矢を防ぐことともできます。
忍者にとって重要なのは「手裏剣と忍術」でなく「針と布」なのでした。

●忍者の歴史

生存のための知識や実践の技術が鍛錬により一体化し、職能として体系化された古典的軍用疑似術が忍術なのである。

甲賀・伊賀の秘伝書には『古事記』までさかのぼるものがあるそうですが、研究者でもある著者はこれを否定しています。
一方『日本書紀』では中国大陸から甲賀地域へ帰化した人々がおり、同時に『孫子』を伝えたとされているそうです。
「戦わずして勝つ」の『孫子』の教えが諜、報活動など直接戦闘を目的としない忍者に影響を与えた可能性があるとしています。

聖徳太子の時代になり、初めて「シノビ」という言葉が登場するそうです。
奈良の飛鳥と甲賀の位置関係からしても関係があった可能性があるとしています。
また聖武天皇時代の奈良の東大寺建造にも甲賀・伊賀が貢献した記録が残っているそうです。
また甲賀は「平将門の乱(939年)」で功績を残したとされています。
ちなみに伊賀・甲賀といっても全員が忍者でなく、武士も多くいたようです。

次に大きく記述されているのは源義経で、忍術「義経流」の祖とされているそうです。
本書では『義経流陰忍伝』が記載、解説されています。
南北朝時代を描いた『太平記』では神出鬼没の存在として「忍び」という記述が初めて登場するそうです。
このころには確実に戦力として忍びが使われていたことになります。
ただし『太平記』は後世になって書かれたもので記述内容に創作が含まれている可能性は高いです。

戦国時代になると、各国が忍びを抱えていたと思われます。
甲賀は近江の六角氏と関係が深く、共に織田信長と戦いますが敗退。
甲賀武士は信長の配下になります。
一方で伊賀武士は徹底抗戦を続けたとされます。
豊臣秀吉も忍びを重用したとされています。

江戸時代になると、関ヶ原の闘いに敗れた豊臣方による「大阪冬の陣(1614年)」「大阪夏の陣(1615年)」が起こり、徳川、真田の双方とも忍びを用いたと思われます。
なお、徳川家の有名な忍びに服部半蔵がいますが、この名前は服部氏で代々受け継がれているものであり、特定の個人の氏名ではありません。
「大阪冬・夏の陣」が終わると、今度は「島原の乱(1637年)」が起きますが平定されます。

その後は太平の時代が続き、忍びが戦力として活躍する時代も終焉を迎えます。
ただし「隠れキリシタン」の探索などの記録は残っているようです。

この記事では省略しましたが、忍者の修行や、現代での忍者教えの活用法についても書かれています。
興味のある方はぜひ読んでみてください。