書評

SFの若い天才が遺した作品『ハーモニー[新版]』(早川書房)

SFの若い天才が遺した作品『ハーモニー[新版]』(早川書房)

伊藤計劃(いとうけいかく)氏の作品『ハーモニー』は未来の「健康主義社会」を題材にしたSFです。
プログラムを思わせる特殊な文章表現が、この物語に特殊な味わいを付け加えています。
著者の伊藤計劃氏は日本のSF会を代表とする作家でしたが、『虐殺機関』での作家デビューから2年後、35歳という若さでなくなってしまいました。

最後の作品『屍者の帝国』は途中までしか執筆されておらず、SF作家の円城塔氏が引き継ぐことで完成しました。
『虐殺機関』『ハーモニー』『屍者の帝国』の長編3作品全てがアニメ映画化されています。(ゲームのノベライズ作品を除く)

●『ハーモニー』の世界

昔、バラードって人がそう言ってた。SF作家。そう、まさにここ。
生府(ヴァイガメント)ががみんなの健康と命をとても大事にするこの世界。
私たちは昔の人が思い描いた未来に閉じ込められたのよ

『ハーモニー』は、人口を激減させた「大災禍(ザ・メイルストロム)」を経た後の、資本主義ならぬ「生命主義」「健康主義」的な医療福祉社会での物語です。

大災禍により多くの生命が失われましたが、その後、人類は医療技術の進化により「メディケア(個人用医療薬精製システム」を作りました。
大人になると「WatchMe」を身体にインストールして体調を監視します。
異常があれば、一家に一台あるメディケアのシステムが「医療分子(メディモル)を使って自動的に治療をします。
この世界ではもはや、「病気」という概念自体が消えつつあります。

資本主義では経済活動を強いられるように、健康を強いられ、生きることを強いられ、倫理的であることを強いられる社会が『ハーモニー』の舞台です。

●登場人物の2人の少女

自由
博愛
平等
ミァハはそんな社会を憎悪していた

慧江(きりえ)トァンと、御冷(みひえ)ミァハという2人の少女が、この物語の主要登場人物です。
この世界では、健康を監視するWatchMeは、大人にならないとインストールできません。そのため子供は大切な「資源(リソース)」または「公共的身体」として丁寧に扱われます。
そこには健康はあっても、自由はありません。
2人の少女のうち、1人はそんな社会を受け入れ、1人は社会を否定します。

なら、わたしはオトナになりたくない。このカラダはわたしのもの。
わたしはわたしの人生を生きたいの。
互いに思いやり慈しむ空気に絞め殺されるのを待つんじゃなくってね。

●自殺と革命

むかしむかし、自殺の禁止にかけては、カソリックがそのエキスパートだった。

この「カソリック」はキリスト教の一派ですが、宗教と読み替えても良いでしょう。
命は大切にしなければならない。それは、神から授かったものだから。
人間は神の子羊に過ぎず、自ら命を絶ってはならない。
極論かもしれませんが、宗教と生命倫理を重ね合わせるとこのように考えることができる、というのが本作で描かれています。

しかし『ハーモニー』の世界では信仰自体が既になくなり、自殺してはならない理由は「公共的身体(パブリックボディ)」だからです。
彼女たちの命は、神の所有物でなく、自分のものものでもなく、「みんなの所有物」になっていたのでした。

だからこそ、わたしたちは死ななければならない、と感じていた。
命が大事にされすぎているから。
互いに互いを思いやりすぎているから。

こういった「健康主義」を支えているのが「政府」ならぬ「生府」という「医療合意共同体(メディカル・コンセンサス)」です。
この統治形態では、国王や大統領、議員や議会といったものではなく、細切れの個人の「生命を尊重するという総意」によって運営されています。
そのため、特定の誰かを殺したり、何かを破壊しても、この健康主義社会を転覆することはできません。

だからこそ、少女のうち1人は社会への反抗として「死ななければならない」と考え、それを実行に移したのでした。

●不健康という嗜好品

一方、大人となった主人公はWHO(世界保健機構)の螺旋監察官という職についています。
しかし彼女はWHOに所属しているにも関わらずタバコを好んでいました。
この世界でタバコを吸ったりお酒を飲んだりして、不健康になれるのは戦場くらいのもの。そのため主人公は、派遣隊として各地の戦場に身を置いています。
それは、社会を否定できないまま大人になってしまった彼女の「健康主義社会」へのささやかな抵抗でもあります。

●事件

インターポールの連絡担当官が説明する。
六五八二人が同じ日同じ瞬間にどう示し合わせたのか一斉に自殺を図り、二七九六人がそれをやり遂げました、と。

さて、そういった「死ねない社会」で、突如として世界同時多発自殺が発生します。
その影に見え隠れするのは、社会を拒絶して子供のときに死んだはず少女でした。
主人公は、この事件をきっかけに、彼女の影を追うことになります。
この物語の結末は、どうなるのでしょうか?

●大人になること

大人になること、それはWatchMeを身体に入れて
どこかの生府の合意(アグリーメンツ)になって
生府のサーバに身体をつながれて
生活指標をどこぞの健康コンサルにもらって
共同体のセッションにオンオフ両方きちんと顔を出す

そういうことなのだ、これは。

この物語のテーマが単に「健康社会SF」だけでなく、「大人になること」にあるのは明らかです。
子供のころは明確に持っていた自分の意志が、大人になるにつれ、常識に染まり、社会に染まり、身体をつながれ、共同体(会社や地域)のセッションにオンオフ両方きちんと顔を出すようになる。
こうして無意識のうちに「合意共同体」の一部になっていきます。

この作品のテーマは、そういった「大人になることによる自己の喪失」へのアンチテーゼであると言えるのではないでしょうか。

●まとめ

『ハーモニー』の背景には「少子高齢化社会」があると思われます。
少子化社会では人口を維持するため、高齢化社会では生命を維持するために、医療技術が貢献する余地があります。
しかし、医療技術が個人の意思を超えるほど肥大化するとどうなるのか、という世界が描かれていると思います。

また、本作品では「大災禍」という架空の災厄により急激な社会転換がされていますが、現実でも「震災・津波・原発と放射能」や「SARS-Cov-2(新型コロナウイルス)」の感染拡大といったことが起こっています。
(なお、本作は東日本大震災以前に執筆された作品です)
本作品は、こういった事態の後にどのような社会を目指すのか、その目指す社会に欠陥はないのか、ということを読者に問いかけているようにも思えます。